在日のタブー 朝鮮進駐軍/小麦の話 (農林10号)

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<ベンの足跡>IZA 日本の花言葉

2012.12.21 19:59
【目次 1.在日のタブー 朝鮮進駐軍 2.小麦の話(農林10号)】

ブログ ねずさんのひとり言 より
拡散希望「朝鮮進駐軍の非道を忘れるな」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-748.html

朝鮮進駐軍」の朝鮮総連本部

 以下は、Youtubuにアップされている動画にあるテキストです。
このことは日本人全員が過去の事実として知っておくべきことです。
みなさんの手による拡散を希望します。
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「在日のタブー、朝鮮進駐軍」
※「朝鮮進駐軍(ちょうせんしんちゅうぐん)」とは。
 在日朝鮮人は日本と戦争をした事実は無いにもかかわらず、終戦と同時に「朝鮮進駐軍」を自称し、日本各地において婦女暴行、暴行、略奪、警察署の襲撃、土地・建物の不法占拠、鉄道の不法乗車等、横暴の限りを尽くした。

終戦後 「朝鮮進駐軍」武装部隊が首相官邸襲撃
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「朝鮮進駐軍」部隊2000人による「首相官邸襲撃事件」が1946年起きた。
約2000人 の在日朝鮮人「朝鮮進駐軍」部隊が完全武装して首相官邸に突入。
日本の警官隊は当時武器の所持は禁じられていため、米軍憲兵隊に応援を頼んだ。
そこで米軍憲兵隊と「朝鮮進駐軍」との間で大銃撃戦闘へと発展した。
 戦後の在日朝鮮人は、なんの国際法上の地位もないにも関わらず、勝手に自分たちを「戦勝国民である朝鮮進駐軍」であると詐称し、三万人もの武装集団となって全国主要都市に出現し暴れまくった。
 在日朝鮮人集団は、武装解除された日本軍の武器と軍服を盗用して武装し、勝手に「朝鮮進駐軍」と名乗り、無差別に多くの日本人市民を殺害した。
GHQの 記録に残っているだけでも四千人以上の殺害記録が残されている。
 戦後の治安が整っていない空白を良いことに、「朝鮮進駐軍」と名乗った在日朝鮮人は、土地の不法略奪、金品略奪、強姦、銀行襲撃、殺略、警察襲撃など暴れ放題の限りを尽くした。
「朝鮮進駐軍」と名乗る暴徒たちは、個々に部隊名を名乗り、各地で縄張りを作り暴れた。
これら「朝鮮進駐軍」 元締め組織が「朝鮮総連」、ヤクザなどになっていった。

 国有地も、都心駅前一等地周辺も、軒並み不法占拠した。そしてそのまま、パチ ンコ屋、飲み屋、風俗店等々が出現し、そのまま彼らの土地として登記され現在に至っている。
農家、農協倉庫を襲い、貨車を襲撃、商店街、国の食料倉庫も襲い、食料や商品を根こそぎ 奪って行き、それらは全て戦後の闇市で売りさばき、暴利で財を成したのは彼らであった。

 財を成したのは彼らは分派し、政治組織として社会主義、共産主義組織へと発展し、政界にも進んだ。
「朝鮮進駐軍」と名乗る在日朝鮮人暴徒たちは、通りすがりの市民に言いがかりをつけ集団暴行をはたらく。無銭飲食は当たり前、白昼に目に付いた婦女子を路上で集団強姦するなどを、日常茶飯事に繰り返した。
 在日朝鮮人は「朝鮮進駐軍」部隊と名乗り、武装して、町をのし歩いた。
彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩した。腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を振り回しては、手当たり次第に日本人を殺傷、暴行し、略奪の限りを尽くした。
 通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをした。

 善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。

 こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。
袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。警官が駆けつけても手も足もでない。
終戦後の警官が、一切の銃器の所持が許されていなかったのをよいことにして、

「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」

と、丸腰警官を殴り、ド突き回し、警備用の木刀や飾りのサーベルをヘシ曲げた。
戦後当時の「朝鮮進駐軍」は今日の朝鮮総連本部である。
今の朝鮮総連となる「在日朝鮮人連盟中央総本部」

昭和26年03月22日衆議院法務委員会】
  【押谷委員】
 お尋ねをいたしますことは、昨朝起りました朝鮮人による米兵に対する暴行事件であります。
昨二十一日の午前三時半ごろに、浅草の千束町の朝鮮マーケット附近におきまして、六名の米兵が多数の鮮人に取囲まれまして、集団的に暴力を加えられて、一名は死亡する、二名は負傷する、自動車も破壞されるというような不祥事を起したのでありますが、わが国の講和を前に控えて、今日日本の置かれたる国際的地位などから考え、この時期を思いまするときに、まことに遺憾しごくな事件だと考えます。
  終戦後の第三国人どもは本当に酷かった。軍の兵器を盗んで来たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、実力犯を中心にあらゆる悪事を重ねていた。
銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、渋谷は台湾人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いていた。戦勝国民は治外法権だったのである。
だから食管法に限らず、戦勝国民には日本法を適用出来なかった。服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、そこへ行けば食料に限らず物資は山ほどあった。日本人は買えなかったが。

 そうした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝国民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して堂々と闇商売を行い、派手に稼いでいた。そりゃ儲かるだろう。警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから(さすがに銃撃戦は挑まなかった模様)。

 当時は物不足で、売る方は素人でも出来た。
仕入れこそ難しかった。 彼等は日本人露天商を襲って商品を奪う。

 それで警察が黙認して捕まえないのだから、こりゃあ損のしようが無い。
警察が襲撃されることしきりで、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず。

 上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ国税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった。

 当時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三国人の襲来によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された渋谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との連絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚挙に暇有りませんでした。

 東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根-中川、江戸川、利根川流域の牛は皆いなくなった。当時、あの辺は畜力として農耕牛を使っていたが、深夜、不良朝鮮人が侵入して来て盗み出し、河原へひいて行って屠殺した。牛はモウと言って泣いたので皆気付いたが、銃砲刀剣で武装しているので追う訳には行かなかった。
  永年愛育し、慈しんで来た牛が悲しそうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出来なかった。
そうして利根川水系流域一帯の牛は皆、不良朝鮮人に盗まれ、殺され、闇市で売られた。

 この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を売りに来たものだ。
上流で屠殺した牛を、そのまま下流へ売りに来たのだろう。
かくて南関東から、牛はいなくなった。

 家/畜相手ならまだしも、人間に対しても、関東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つような勢で数多犯罪を重ねた。
川崎、浜松、大阪、神戸などが酷かった。その最も著しい象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に対する集団暴行・傷害事件がある。

 翁が軽井沢の静養先から帰京しようとして信越本線の汽車に乗っていたら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鉄道員を突き飛ばし押入って来て、
俺達は戦勝国民だ、おまえら被支配者の敗戦国民が座って支配者様を立たせるとは生意気だ、この車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな!」と追い立てた。
それで鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座っているのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、たちまち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした。
幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した。

 年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、いかに不出来な孫にせよ。
孫共はこれを知らんのだろう。
直後に総理大臣に成る程の大物でもかくのごとし。いわんや庶民におては 土地も屋敷も物資も操も、奪い放題であった。
 闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、ことには、空襲や疎開で一時的に空いている土地が片端から強奪された。

 今、朝鮮人が駅前の一等地でパチ/ンコ屋や焼肉屋を営業しているのは、皆、あの時奪った被災者の土地だ。

それでも警察は手が出せなかった。
歴代首相大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察ごときに何が出来よう。

ある日、警察は何月何日を以て廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、それ切り警察は消滅する。

七百万の大軍を擁した彼の帝国陸海軍ですら、左様にして両総長 両大臣以下、自然廃官になった。まこと敗戦は悲しからずや。

 たまりかねた警察が密かにやくざに頼み込み「浜松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻発した。

 最後の頼みの綱は連合国軍であったが、遂にはその憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った。
 それでさすがに米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担当していた米第八軍司令官アイケルバーガー中将が、関東と言はず関西と言はず、はたまた北九州と言はず、不良朝鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機関銃を構へて不良朝鮮人共にピタリと狙いをつけ、ようやく鎮圧した。我々はその火器のきらめきを間近に見た。

この時、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥の発した布告が、
 「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と言い声名で、これぞ「第三国人」なる語のおこりである。
だから、外国人差別用語なはずは無い。
 彼等自身、マッカーサー元帥以下、一人残らず皆、外国人ではないか。

連合国軍総司令官は、日本人に対してこそ絶大な権勢を振ったが、本国や同盟国、対日理事会や極東委員会に気を使わねばならぬ外交センスの要る役職であった。
何人にもせよ、敗戦国民以外を、声名発してまで差別なんぞする筈が無い。

「第三国人」の語は、国際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない。

  終戦後の朝鮮人の横暴は目に余るものであった。
東京のど真ん中、銀座の交番に於いてさえ、朝鮮人を注意した巡査が複数の朝鮮人の襲撃を受け裸にされ警棒を尻に突っ込まれると言う乱暴を受けた。

 1950年にGHQは日本占領を終結し、解放し、実質的に戦後は終わったとされています。
その際に朝鮮人は日本籍を剥奪され、韓国籍として朝鮮に帰れと命令しました。
不要の朝鮮学校と民団総連も廃止し解散請求しました。
 すると在日朝鮮人は、なにを履き違えたか
「我々は先勝国民であり日本を統治する立場だ」と叫びだし、革命を叫んで、公共施設の不法占拠し火炎瓶や武器で武装して決起したのです。

 警察も拳銃で対抗し射殺された人もでました
警察では対処できなくなり、GHQは軍隊の動員をして戦後初の戒厳令を敷いて朝鮮人による暴動を平定しました。

 この戦後初の戒厳令が敷かれた朝鮮人動乱(正式名がない)事件は、日本の歴史からスッポリ抜けています。死人も出ている事件なのに、日本の教科書には掲載されたことはありません。(日本各地で勃発しました、栃木や浅草などは戦場状態です)

 逆に朝鮮民族学校の教科書には差別と弾圧として掲載され教育されています。
勿論、被害者側としてであり、立ち上がったのは国籍条項と朝鮮民族学校の廃校に対する
抗議としてであると述べています。
日本人として、在日朝鮮人への危機感は常に持つべきですね。
 
 言っておくが日本国内だけではない。

 朝鮮半島を朝鮮を近代化させて、恩あるはずの我ら先人の日本人を集団で襲って、強姦強盗不動産窃盗と悪の限りを尽したのを皆忘れてしまったのか。

多くの日本人は、朝鮮人に襲われ、無念にも命を落とし、帰れなかった人は数知れない。

 彼らの悔しさを思うと、日本人の敵朝鮮人に参政権という言葉は決して出てこないはずである。
このことを誰も伝えようとしないが、事実は決して消える物ではない。

 朝鮮人の日本人に対する犯罪は、触れては成らない理由があるのか不思議な日本人達だ。

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小麦の話―その1】
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1619.html

農林10号(写真下)

農林10号は、ターキーレッド(上)、フルツ達磨(中)を交配して生まれました。

 小麦は、米、トウモロコシと並ぶ世界三大穀物のひとつです。
なかでもいちばん生産量(消費量)が大きいのが小麦。
パンやパスタが主食となる欧米では、小麦は、国家の食糧自給のための最重要品目です。

ですからどこの国でも小麦の生産は国が統括しています。
あたりまえです。
国民あっての政府なのです。
何よりも自国民の食を最優先する。
国が管理し備蓄しなければ、万一の際に国民が飢えてしまいます。
従っていずれの国においても国内で生産された小麦は、まず自国で消費備蓄する分を政府が優先して確保します。
余った分だけ、輸出にまわります。
凶作で余らなければ、輸出はありません。

こうなる困るのは輸入国のほうですが、ところが日本では、かつては全国どこにでもみられた麦畑が、いまではほとんど見かけられなくなりました。
自給率が百パーセントあった小麦は、いまでは年間消費量約600万トンのうちの90%を輸入に頼るようになっているのです。

 輸入先は一位米国、二位カナダ、三位オーストラリアです。
なぜか大東亜戦争の戦勝国たちです。
そしていま、我が国が輸入している小麦は、実は日本生まれの小麦です。

 昭和20年、戦勝国として日本に乗り込んだGHQは、日本が開発し研究してた農作物の新種の種子を大量に収集し米本国に送りました。
それはそれはすさまじいもので、根こそぎ全部持って行ったのです。

 この中心となったのが米国人農学者のS・C・サーモンです。
彼はGHQの農業顧問として来日し、そして日本で開発された「農林一〇号」と名付けられた小麦のウワサを聞きつけます。
そして岩手の国立農業試験場まで、自ら出向くと、収穫前の「農林一〇号」を視察しています。

 そこで彼が見たもの。
それは、これまで世界の誰もが目にしたことのない新種の小麦だったのです。
 まさに驚愕の歴史がここにはじまります。

 当時、世界で生産されていた小麦は、背の高い小麦です。
収穫時の高さは1m20cmくらいになります。ところが「農林一〇号」は、背丈が60cmくらいです。
そのくせたわわに稔った実は、米国産の小麦の数倍です。

 実はこのことは小麦の栽培にあたって、とても重要なことなのです。
背丈が半分ということは、地面から吸い取る栄養分が、背の高い品種の八分の一ですむということです。
葉や茎に要する栄養分が少ないからです。

 ところがそれまで世界で生産されていた小麦は、背が高く、大きくて、実が少なかったのです。
小麦の収量をあげるためには、とにかく密度を濃くして植えるしかない。
なので、苗から苗までを、およそ15cm間隔で植えたといいます。
すさまじいです。
 稔る頃にはものすごい密度になる。

 ところがこれをやると、農地の栄養分がまたたくまに吸い取られ、土地が痩せてしまうのです。
このため何年に一度は土地を休ませないといけなくなる。
つまり広大な農地が遊休地になるのです。
当然、その分、収穫高が落ちる。

 ところが「農林10号」は、なんと五〇センチ間隔で植えられるのです。
しかも背が低く茎と葉が小さい。
だから余計な栄養分を地面から吸わない。
それでいて背の高い小麦より、はるかにたくさんの実を稔らせる。
 つまり、土地が枯れない。
しかも単位面積あたりの小麦の収穫量は、当時の米国産小麦の三〜五倍です。

 農学者のサーモンは、驚愕し、「農林一〇号」の種子を全部集めて東京に持ち帰り、米本国の農業学者たちにこの種子を「ノーリン・テン」の名前で送ってしまったのです。

この種子を受け取ったなかのひとりが、ワシントン州のO・A・フォーゲルでした。
彼は、サーモンから入手した「ノーリン・テン」を栽培し、量を増やし、新型小麦「ゲインズ」という名前で、全米の農家に売りに出しました。

 この種子は全米で大当たりします。
全米で驚異的な出来高をあげたのです。
小麦の収量は、一気に4倍にも膨れ上がったのです。

 「ゲインズ」が、大当たりしたことには、もうひとつのファクターがあります。
それは「ゲインズ」が背が低かったことです。
なぜ背が低いのが喜ばれたかというと、背が低くて安定しているから、たわわに実を稔らせても麦の茎が倒れないのです。

 栽培途中で倒れた麦は収穫できません。
倒れないということが、いかに大事なことか、おわかりいただけようかと思います。

 さて、このゲインズの噂を聞きつけたのが、メキシコで農業研究をしていた米国人農学博士ノーマン・ボーローグです。 彼がどうしてメキシコで小麦の研究をしていたかというと、メキシコは高温多湿で地味が肥えているから、小麦の栽培に適していたからです。

 ところがメキシコには小麦にサビ病という風土病があります。
これが発生すると収穫が激減し、その都度メキシコは飢饉に見舞われていたのです。

 ボーローグは自らメキシコに出向き、伝染病に強い小麦を研究していました。
そしてようやく病気につよい品種を完成したのです。
彼は狂喜しました。

けれど、ダメだったんです。
彼が完成した小麦は、背が高くて、病気に強く、稔りが多いのです。

 これだけ聞くといっけん完璧なようですが、稔りが多くて背が高いから、麦が収穫前に倒れてしまうのです。
倒れた小麦は育たず、収穫できません。
結果ボーローグの開発した新種の小麦は、肝心の収穫高がむしろ「減ってしまった」のです。
これではなんのために開発したのかわかりません。

ボーローグは困り果てていました。
そこに飛び込んできた情報が「ゲインズ」の大成功のニュースだったのです。

 ボーローグがワラをも掴む思いだったことは容易に想像がつきます。
彼は、メキシコに「ゲインズ」を取り寄せると、さっそく自らが開発した品種と掛け合わせ、ついに、「稔りが多くて、背が低くて、収穫期に倒れず、土地を痩せさせず、病気に強い」という「理想の小麦」を完成したのです。
なんとこの功績で、ボーローグは国連農業機関員にまで出世している。

 彼は、国連の機関員として、発展途上国各地の農業を視察するとともに、各国から農業研究者をメキシコに呼び寄せて技術指導をし、指導を受けた者たちに、この新種の麦の種子を持ち帰ることを許可するという制度を開始しました。 「制度を開始」したのです。
 冒頭申し上げたように、小麦は大切な国内食材です。
だからメキシコでも、米国以外への種子の持ち出しは厳禁だったのです。

 このことは逆にいえばS・C・サーモンが日本から種子を根こそぎ持って行ったということが、いかに横暴な出来事であったかということでもあります。

さて、ボーローグがメキシコの法まで改正して、ようやく世界にむけて新種の小麦の普及が図られ出した昭和四〇年頃のことです。

この年から翌年にかけて、インド、パキスタンで、冷害による大凶作が起こりました。
数千万人が、飢えて死亡する事態になったのです。

ボーローグは、インドに数万トン単位で、この新品種の種子を送り込みました。
そしてこの種子が稔ると、なんとインドの小麦の収量は、全土で二倍になり、パキスタンでも自給自足が可能なレベルにまで食が安定したのです。

この事件をきっかけにボーローグの小麦は「奇跡の麦」と呼ばれるようになりました。
そして世界に普及し、世界の小麦収量を激増させています。

 いま世界全体で生産される小麦は年間6億トンです。
けれど農地(作付)面積は1960年から変わっていないのです。
そして当時の小麦収量は、全世界で2億トンです。

つまりボーローグの「奇跡の麦」は、世界の小麦収量を3倍に増やしたのです。
これは「緑の革命」と呼ばれています。

 今から二百年ほど前、英国の経済学者トマス・ロバート・マルサスは、世界の人口はまもなく食糧栽培能力を上回り、人口はそれ以上に増えることはない」と主張しました。
当然です。人間は食い物の量以上に増えることはできない。

ところが奇跡の麦は、世界の食糧事情を好転させ、おかげで世界の人口は、200年前の3倍に増えました。
おかげで世界の人口も、3倍に増えたのです。
ボーローグは世界の食糧不足の改善に尽くしたとして1970年に、ノーベル平和賞を受賞しています。

ところが、長い間ボーローグの「奇跡の麦」が、なぜできあがったのか、謎に包まれていたのです。
それが明らかになったのは、彼が講演のために来日したときで、本人の口から、日本で生まれた「ノーリン・テン」を親として開発された小麦であることが明らかにされました。

 いま世界の人類の生存を支えている小麦の品種は数百種類に及んでいる。けれどそれらは、ことごとく日本で開発された「農林一〇号(ノーリン・テン)」の子供たちです。
そしてその「農林一〇号」を開発したのは、日本人農学者稲塚権次郎博士です。
ちなみに稲塚権次郎博士は「農林一号」も開発しています。
「農林一号」は、コシヒカリ、ササニシキの親です。

いま、小麦の生産高は支那が世界第一位になっています。
けれど支那はもともと世界第一位の生産国だったわけではありません。
これまた戦時中に「農林一〇号」を開発した稲塚権次郎博士が、北京の華北産業科学研究所に農業指導のために招かれ、小麦の改良と指導を行った結果です。

 稲塚博士は、終戦後も国民党政府から「帰らないでくれ」と懇願され、終戦後二年も支那に留まり、本土に復員されたのは昭和22年になってからのことでした。
おかげで支那の小麦収量は3倍になり、当時5億だった支那の人口は、いまでは15億になっています。

 さて、ここから先は、こうした経緯を振り返って、私が個人的に感じたことです。
あくまでも感じたことなので、失礼があればお赦しください。

先の大戦で、日本が前半戦において、まさに破竹の快進撃をしたのはご存知の通りです。
当時の帝国陸海軍は、まさに神に近い強さを持っていました。
米英濠仏、いずれも日本軍に敵う軍隊はなかったのです。

フィリピンを守っていたマッカーサーも、強大な陸軍を誇りながら、一瞬にして制海権、制空権を日本軍に奪われ、陸戦においても我が陸軍の前にまるで歯がたちませんでした。

 しかも我が軍はハーグ陸戦条約を遵守し、あくまで戦地の民間人が退去するまで、その地への攻撃をしかけなかったし、攻撃するのも敵の軍事施設のみに焦点をあてた精巧な攻撃を行っています。
日本軍は、まさに世界最強の神にも通じる皇軍の兵士だったのです。

ところがある日を境に、我が軍は敗退につぐ敗退となりました。
まるでツキが落ちたかのようです。
打つ手打つ手が裏目にでています。

で、思うのです。
もしかすると日本の八百万の神々は、未来を見据えていたのではないか、と。

 もし日本があの戦争に勝つか、あるいは昭和十八年の時点で米英と講和条約を結んでいたらどうなったか。
おそらく米英との敵対関係は継続されます。
インドもパキスタンも、英国領のままです。

日本にはすでに「農林一〇号」はあったけれど、三大穀物の種子は友好国以外輸出禁止です。
であれば昭和四〇年に起こったインド、パキスタンの凶作時、英国領である同国に「農林一〇号」は行き当たらなかった可能性がある。
そうなると、インド、パキスタンは、億単位の餓死者を出した可能性があるのです。

日本が戦争を終わらせ、GHQが日本で開発された「農林一〇号」を米本国に持ち帰ったことから、米国の小麦収量は劇的に上がり、メキシコで病気に強くなり、奇跡の麦が誕生し、それが世界に普及しました。
おかげで世界の人口は三倍に増えました。
インド、パキスタンも、餓死者を最小に止めることができ、それどころか今ではインドは小麦の輸出国でさえあります。

一方戦の序盤から中盤にかけて日本が勝利を連続させなければ、その後の東亜諸国の独立はなかったであろうし、世界の人種の平等も確立されてなかった、これも事実です。

日本の八百万の神々の御心は、我々凡人には計り知れません。
けれど、もし未来を知る八百万の神々なら、どう判断し、どう行動したであろうかと想像してみると不思議なのです。

日本を最後まで勝たせて世界の飢餓を招くか、それとも日本を敗戦に導いてでも世界の民衆の幸福を図ろうとするか。そのような選択肢を前にしたら、神ならずとも、後者を選択します。

そして日本で開発された小麦はたしかに世界を飢えから救ったのみならず、世界の人口を三倍に増やしているのです。
さらに日本が掲げた人種の平等、植民地支配の終焉という壮大な目的も、日本は国土を焼土としたけれどたしかに実現しています。日本は戦争の目的を達しているのです。

しかも焼け野原となったはずの日本は、終戦直後の世界の最貧国状態から、ほんのわずかな期間で、世界有数の富める国となっています。
おかげで国を守るべき政治家までが「平和ボケ」するくらいの平和と繁栄を手に入れています。

言い換えれば靖国に眠る236万柱の英霊は、世界に人種の平等を実現しただけでなく、世界を飢えから救い、戦後日本の平和と安全と繁栄を実現したのいえるのかもしれません。

そしてそういうことを我々日本人が謙虚に学び、英霊への感謝を捧げるとき、日本と世界は再び大いなる発展のときを迎えるのではないかと思うのです。
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http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-999.html
小麦のお話- その2
岩手県立農事試験場時代の稲塚権次郎氏

(小麦農林十号の開発に成功した頃の写真)
 18世紀初頭の学者に、英国のトマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus)という人がいます。
マルサスは、1798年に、「人口論」という本を書きました。
その中で彼は、
「人口は、幾何級数的に増加する。
一方、食料の生産能力には限界がある。
だから人口の増加には一定の限界がある」という論を発表しました。

 彼の説によれば、世界の人口は20億人が限界で、それ以上は食糧生産高が間に合わず、人口は増加しない、ということになります。

ところが、特に戦後世界は、爆発的に人口を増加させ、いまやその人口は約60億人です。

なぜ、そこまで人口が増えたのかというと、実は、小麦がそのファクターになっています。

人類の食糧は、世界三大穀物と呼ばれる、コメ、小麦、トウモロコシです。
もちろんそればかりではなく、牛や豚の肉を食べたり、野菜や果物も食べますが、腹を膨らませるのは、やはり、ご飯や、パスタ、麺類です。

日本ではコメが主食ですが、欧米やアジアの多くの国々は、小麦です。

小麦から作られる食品といえば、パンやうどんの他、ラーメンやパスタ、マカロニ、餃子の皮、シューマイ、カステラ、ケーキ、天ぷら、トンカツのコロモなどなどがあります。どれも基本的な食品ばかりです。

筆者などは、この世からうどんやパスタ、ラーメンが消えたら、とってもツライ(笑)

支那の人口は、いまや15億人に達しているといわれていますが、実は、戦前の支那の人口は、5億人程度です。

戦後、支那の人口はなんと約3倍に増えたのです。
なぜ増えることができたのかといえば、それは食料が豊富になったからで、ではどうして食料が豊富になったかといえば、小麦の生産高が爆発的に増えたからです。

ちなみに世界の小麦生産量は約6億トンですが、このうち約1億トンは支那で生産されています。
そして支那は、そのほぼすべてを自国内で消費しています。輸出はほぼ、ゼロです。

ではなぜ支那の人口が、3倍にも増えたのかというと、実はそれは日本のおかげです。

実は、日本は、支那の清王朝の西大后が画策した義和団事件で、清国政府から賠償金を得、その賠償金の還元策として、広く華北の産業発展を目指すためにと、北京に華北産業科学研究所を創設したました。

その研究所がもっとも力を入れたのが、支那の農業振興のための研究です。

支那の貧困を救い、彼らに安定した食料を供給しなければ、次のステップとしての教育の振興に至れない。

なんと当時、華北産業科学研究所には、日本の東大、北大、九大などからとびきり優秀な人材を326名も送り込んでいます。

当時の華北地方は、洪水、日照り、イナゴの害といった厳しい自然環境の中で、農民たちがきわめて原始的な農業を営んでいたのです。

そりゃそうです。
人は火を使いますが、火を焚くために木々を燃やせば、森はあっという間になくなり、砂漠化してしまう。
だから華北は砂漠ばかりです。

日本は豊富な森林資源を持つけれど、これは単に日本が温帯地方にあり、高温多湿な国だからではありません。
国をあげて、植林事業や、日常的な森の手当を行ってきたからです。

現に先の大戦で日本は、森林資源の30%を失ったけれど、いまは完全に復活しています。
戦後すぐに、陛下自らが全国を回られ、お手植えで植林をしてまわられたからです。
陛下がお手ずから植林されるのです。
そりゃあ民間だって力がはいる。
(もっとも早く木が育ち、住宅建築に活かせるようにと、当時スギを大量に植えたおかげで、戦後日本では花粉症というやっかいなものまで普及したけれど、これはまた別の話です)

そしてまだ、大戦が始まる前の昭和13(1938)年、日本から、ひとりの人物が支那の華北産業科学研究所に赴任します。
日本を代表する穀物品種改良の大家、稲塚権次郎氏です。
 飯塚権次郎氏は、明治30(1897)年の富山県城端町の貧しい農家の生まれです。
字の読めなかった彼の両親は、息子に惨めな思いはさせたくないと、無理をして息子を学校へ入れた。
 優秀だった権次郎は、独学で東京帝大農科大学農学実科を受験し、みごと現役で合格し、卒業後、秋田県の農事試験場に勤務します。

ここで開発したのが、「雨にもマケズ」の詩で有名な宮沢賢治が「冷害に強い品種」と大絶賛した米「陸羽一三二号」です。
権次郎の偉いのは、単に新品種を開発するだけでなく、その普及にも奔走したこと。
 おかげで、毎年冷害に悩まされた東北地方は、飢饉から救われています。

さらに冷害に強くて収量が多いだけでなく、もっと味の良い品種を、ということで権次郎が開発したのが「水稲農林一号」です。
これは現在のコシヒカリやササニシキ、秋田小町の親にあたります。

 ちなみに韓国人も米を食べますが、禿山ばかりだった朝鮮半島でも人口が増えたのは、日本統治時代に、さかんに植林事業を行ったことと、稲塚権次郎が開発した農林一号の子供たちを、朝鮮総督府が半島で普及させたことによります。要するに、朝鮮人が主食である米を腹いっぱい食べて人口を増やすことができたのも、稲塚権次郎の開発した米の品種があったからなのです。

さらに岩手県農事試験場に移った権次郎は、ここで小麦の研究を始めます。
そして苦心の末、昭和10(1935)年、「小麦農林10号」を誕生させています。

このことは以前、「小麦のお話」でも書かせていただきましたが、もともと小麦というのは、収穫期には高さ1M20cmくらいの大きさに成長する植物です。

これをたくさん収穫するために、15cm間隔くらいに詰めて植える。
そうすると背丈が高い分、地面の養分を大量に吸い上げるから、地味が枯れてしまって、何年かに一度は、土地が使い物にならなくなってしまう。

さらに小麦は、背が高くて大量の実をつけるから、頭が重い。
で、収穫期に台風などの風害があると、小麦が倒れてしまって、収穫できなくなってしまいます。

これらの諸問題を克服するために、飯塚権次郎がしたのは、小麦の品種を改良して、背を低くし、稔りが多くて収量が多い小麦を開発すること。

それで実現したのが「農林10号」です。

この小麦は、収穫期に高さ60cmにしかならない。背が低いのです。
しかも大量の実をつける。
だから、植える時も50cm間隔くらいに植えることが可能で、背が低い分、小麦全体の体積が小さくて、地面を枯らさない。
しかも倒れない。寒さに強い。

華北産業科学研究所に赴任した稲塚権次郎は、この小麦の子供たちを支那で普及させていきます。

農業というのは、土地に種を蒔けばほっといて収穫できるというような単純なものではありません。

途中で雑草を排除しなくちゃなんないし、変な虫が食わないように、防虫もしなければならない。
水の与え方も、それぞれ時期に応じて与え方があります。

権次郎は、自身で開発した農林10号の子供たちを、華北の人々に丁寧に育て方から伝授した。

やがて大東亜戦争が起こり、昭和20年8月、戦争が終わります。
日本は海外にあったすべての権益を放棄し、駐屯していた日本人たちも次々に日本に帰国します。

広大な研究用農地を持つ華北産業科学研究所も、まるごと支那に引き渡されることになった。

このとき、金陵大学で小麦の育種をしていた沈宗瀚博士は、施設の接収に来た際に、こう言ったと伝えられています。

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非常にいいものを作ってもらった。

私も方々歩いたけれども、こんな立派な試験場は見たことがない。

ほんとうにいいものをつくってもらった。

あなた方が許すことなら長くここに残って、この仕事を継続してもらいたい。
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結局、稲塚権次郎は、支那当局に徴用され、終戦後も2年間、研究所に残って指導を続けています。帰国したのは昭和22年です。

おかげで、支那の小麦の収量は、あっという間に3倍に成長します。

支那人の主食は、小麦です。
ラーメンも、餃子も、中華饅頭も、小麦が原料です。

おかげで支那人は、腹いっぱい飯が食えるようになり、食料がある分、人口も増えた。
当時、5億人だった支那の人口が、いまの15億人に増えたのは、大局的にみれば、支那で生産される小麦の収量が増えたからです。

そしてその小麦は、日本の稲塚権次郎が開発した小麦の子供たちなのです

この記事へのコメント

はるかぜ
2017年07月16日 18:08
初めて知りました。

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